485446 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

小さい花のミクロの世界へ

小さい花のミクロの世界へ

幻視(まぼろし)-こぬか雨 (2)

                   
 幻視(まぼろし)-こぬか雨(2)  
         

『あと3日・・・。』
-戦災-

そう考える彼女の意識の中には、奇跡に縋る気持ちしか残されていない。
望みは、一縷の・・・という部分さえも拭い去らねばならないほどの、
絶望的な状況下にあった。
 信与は、度重なる空襲によって、今回のような経験も、重ねてきていた。
その時々に見た光景に、“奇跡”は存在しなかった。

 それにしても、親友の裕子が被災した日が、
終戦を意味する“玉音放送”が流される、3日ほど前だったとは。
河郡市が受けた最後の空襲によって、彼女が被災することになるとは、
何という不運なことだろう。
 信与にとっては唯一最高の親友だったが、
そしてその親友を失うショックは、耐え難い心の痛みだったが、
そのようにして、支え合う親友を、最愛の肉親を、戦災によって失った人々を、
繰り返して何度も見続けてきたことは、また、間違いないことだった。

 今まで見てきた他人の痛みが、
直接、信与に降りかかってきたということなのだ。
しかも、この戦争が終結しようかという、その直前の日に。
その親友の安否が、戦争終結の日に確認されるとは、
これまた、何という皮肉な巡り合わせなのだろう。

 息を切らせて駆けつけた信与の目前に、
掘り起こされた防空壕が、暗い口を開いていた。

 作業に当たっていた人たちに混じって、
近所から駆けつけたと思われる人たちも、防空壕の中を覗き込んでいる。
『裕子ちゃんは?』
そう思ってさらに足を踏み出そうとした信与の背中を、
後ろからそっと引く手があった。
 振り返った信与の眼と、梅田の悲しそうな眼が合った。
その目を見ただけで、結果を察することができた。
『戦争なんだから、人が死ぬことは仕方がない。』
そう考えを切り替えて、長い戦争の年月を、乗り切ってきた。
今回の悲劇も、多分そのようにして、乗り越えられるはずだ。

 梅田がゆっくりと歩を進めた先には、数人の人が横たえられていた。
説明されるまでもなく、防空壕から引き出された遺体であることが解った。
近づいてみると、益子と裕子は、並べて横たえられていた。
梅田が、ふたりが見つけられたときの状況を、説明してくれた。
彼もまた、周囲の人に聞いた状況ではあるのだが、
事務所の同僚が含まれていることから、大筋で正しい状況を、
伝えられているはずだった。

「ふたりを掘り出した人の話なんだが・・・。」
「ええ。」
「割合に、防空壕の出口近くに、
ふたりが寄り添うように、座っていたと言うことだよ。」
「最後のほうに駆け込んだから、中が一杯だったんでしょうね。」
「崩れた土を被ったからなのか、傷みが少なくて、安らかな表情だったそうだ。」
「今見た顔もそうだけど、安らかだったわけだ。」

「うん。まぁ、ほかの人たちがどうだったのか、確認をしていないんだが、
防空壕が崩れた時点で、残念ながら、助からなかっただろうって。」
「それは、どういう事なの?」
 信与は、状況が解っていながらも、確認の意味で、梅田に問いかけた。
梅田も、信与の意図はわかっていた。

「防空壕が崩れて、その時はまだ、中の人たちは無事だった。
外と中の両方から、崩れたところを掘り進めば、
今までもそうだったように、救出されることが、ほぼ間違いないから。」
「そうだよね。」
「ところが、今回はちょっと事情が違った。」
「うん、そうみたいだよね。」
「防空壕が崩れたときに、支柱の“杭の先”が、
表に突き出ちまった。」
「そうでなければ・・・。」
「その杭の先に、焼夷弾の火が飛び移ってしまった。
それで、壕の中が、蒸し焼きのようになっちまったわけさ。」
「不運が重なっちゃったんだ・・・。 」

“慣れ”という哀しい精神状態によるものか、
親友であり、職場の同僚であるふたりの戦災死を目の当たりにしても、
意外なほど気持ちが落ち着いている。
 現実と非現実が、信与の意識の中で、
不思議な混ざり合いを見せているようだった。

「悲しいのに、涙が出ないわ。」
「そうだなぁ。俺も涙が出ないよ。」
「こんな光景を、今までも見てきたから、慣れちゃったのかなぁ。」
「そんなこともないよ。」

 涙が出ない理由を、信与は何となく理解していた。
悲しみは大きいけれど、それよりも“怒り”のほうが勝ってしまったのだ。
何に対する“怒り”だろうか?
 この“運命の非情さ”に対する“怒り”である。
なぜ今このときに、戦争が終結する間際に、
人の命が失われなければならないのか。
 それが戦争というものであり、運命は時の流れを斟酌してくれない。
それは解っているけれど、“3日”という日にちの微妙さに、
“運命”を呪う気持ちが、否応なく強まってしまうのだ。

「ふたり(益子と裕子)が一緒だったということが、せめてもの慰めか・・・。」
 少しの間をおいて、梅田が呟いた。
ほかに、出せる言葉がなかったのだろう。
「慰めになるわけはないけど、そう思うしかないよね。」

 どこまでも青い空から、焼けるような日射しが降り注いだ1日が、
“終戦”を告げられた1日が、暮れようとしていた。
濃紺の青空が群青色に染まり、やがて紫色を濃くし始めた。
夕風が、土埃を舞い上がらせ始めた。
 防空壕から出された遺体は、急ごしらえの安置所に運ばれた。
同僚の心遣いによって、益子と裕子の遺体は、
並べて安置された。




-信与の心    そして現実へ-

 私が居る場所は・・・?

今まで見た光景は、私が見ていたものなのだろうか?

 急に、天候が変わっているようだ。
焼け付くような晴天だったはずなのに、湿った風が吹いている。
ぼそぼそと、細かい雨が降っている。

 私は炎天下に立って、白い入道雲を見上げていたはずだ。
だが今、いつの間にか私は、ささくれ立った木目が掌にざらつく、
素朴な造りの縁側に、腰を下ろしている。
 ふと視線を上げると、目の前には90歳に近い女性が、
柔和な表情を浮かべて座っていた。
落ち着いた和服が、よく似合っている。

 彼女が、ひとり語りのように、話し始めた。
その場には、私しか居ない。
彼女は、私に話しかけているのだろうか。
『誰に話しかけているわけでもない。』

 そんな風情で、彼女は話を続けた。
「あの日も、こんな風に“こぬか雨”が降る日でした。
あの戦争がなければ、あの終戦直前の空襲がなければ、
私の親友は、今も私とお茶を飲んで、話をしてくれていたでしょう。」

 おや? とすると、この老齢の女性は、“信与さん”なのか?
終戦の日は、全国的に晴天だったと、教えられたのだが、
“こぬか雨”が降っていた?

「私と、戦中の苦労話もできたし、戦後の出来事も、
いろいろと話し合えたはずです。」
 私は、話しかける言葉を、持ち合わせていなかった。
「私の中では、今でも彼女は無二の親友です。
あのあとも親友はできましたが、心に刻まれた親友は、
彼女が唯一の人なのです。」

 あの“終戦”から、何十年が過ぎただろうか。
信与さんの年齢から推察すれば、60年以上が過ぎているはずだった。
だが、年月の経過があっても、彼女の心の中には、
“あのとき”の裕子の姿が、そのままに焼き付いているようだ。

「さて、裕ちゃんが私を迎えに来てくれたようだから、
私はこれで失礼しますよ。」
 信与さんが、立ち上がりかけた。
私は慌てて、彼女に声をかけた。
「信与さん? あなた?」

 彼女は、黙って私に顔を向けた。
なぜか、視線は逸らしているようだ。

「あなたは、梅田さんと結婚なさったのではないのですか?」
 彼女は、軽く頭を振った。
「戦争は終わりました。私のふたりの兄も、無事に帰還しました。」
「それならば・・・。」
「終戦直後の混乱は、大変なものでした。
男の数が極端に少なくなって、女にとっては、
結婚相手を選ぶ自由など、無かった時代なのです。」
「それでは、望んでいない相手であっても、
結婚することがあった、と言うことでしょうか。」
「そのようなこともありました。私がそうだと言うことではありませんよ。」

「もうひとつ。終戦の玉音放送があった日は、
晴れていたのではありませんか?」
「?」
 彼女は、訝しそうな視線を、私に向けた。
彼女の視線を正面から受け止めたのは、
このときが初めてだったように思われる。
「晴れていましたか? あの日の天気は、覚えていません。
こんな天気(こぬか雨)だったのではありませんか?」
「そうですか。」

 私は、納得した。
彼女の意識では、親友を捜し始めたその時から、
“あの日”の天気は、いつも“こぬか雨”がそぼ降る状態だったのだ。
そして、親友の裕子を思い出すときは、
いつも心の中に“こぬか雨”が、降り続けたのだろう。

「さて、私は失礼しますよ。」
 信与の姿が、すっと薄れて、私の目前から消えた。
彼女の姿が消えると、それまで降っていた霧時雨が消えて、
真夏の日射しが戻ってきた。
 私は、何を見せられたのだろうか。
信与は、私に多くを語ってくれることはなかった。
だが私に、“戦争”の一部を、垣間見せてくれた。

 彼女が、私に“あれ”を見せたのだろうか?
そうではない。白い煙の“それ”が、私を、この世界に連れてきた。
戦争の悲惨さを、私に見せようとしたのだろうか。
 私の感受性が貧しいために、“それ”の意図を、
充分に私が受け止められたとは思えないのだが、
妙な体験をさせてもらったのは、間違いない。

 私の感受性の貧しさに呆れて、白い煙の“それ”は、
再び私の前に現れることが、無いかも知れない。
もしもそうだとすれば、ちょっと惜しい気がする。
 変な体験が多いけれど、楽しいと言えなくもない“それ”の誘惑である。
次回の出逢いを、何となく期待している。


 ふと我に返ると、私はいつもの雑踏の中にいた。
今日は、日本の“終戦記念日”だった。
終戦が1945年のことだから、今年は61回目という事になるのか?
【戦歿者を追悼し平和を祈念する日】というのが、
内閣が決めた正式名称らしいが、言葉の言い回しは、どうでも良い。
 戦争に対する悔悟と反省が考えられる日であれば、
“終戦記念日”で、問題はなさそうである。




 こちらに、東京大空襲を実体験なさったかたのHPを、ご紹介します。
               勝手にリンクを張ってしまいますことを、お許しください。


 前ページへ 

 註)『ついでに』ですが、この遊説は数%の真実を元にして、 90%以上のフィクションで脚色&構成しています。 


© Rakuten Group, Inc.
X